「帰りたくない」と男は言い、
「帰したくない」と女も言う。
しかし男はドアを開けて出ていく。
そして、女は玄関で背中を見送る。
二人の間に、時間が流れる。
それぞれの時間が、別々に。
川の流れのように、流れる。
“ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず”
川は同じ場所にある。
しかし流れている水は同じものじゃない。
少しずつ、うねりが川の形を変えていく。
“よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”
記憶のフィルターに残るのは、ほんの僅かな断片。
川の窪みに溜まる落葉のように。
とどまり、また流れて、記憶は美化されていく。
手のひらに残る温度、
指先で感じた湿度、
耳に残る声、
香る髪の匂い。
思い出す度に新鮮に蘇り、
また美化されてよどみに溜まっていく。
二人を取り巻く環境だけが、川の形のように変わり、
それぞれの記憶はそれぞれのよどみに。
ゆらゆら浮かんでいただけなのに、
今では川底に根付いた岩のようにしっかりと。
手をつないで歩いた坂の川のほとりに。