『あれは、同じ5月の、薄曇りの穏やかな一日。
陽気な音楽がかかるテラス席で葉が混ざり始めた枝垂れ桜を眺めながら、エビのクリーム煮込みを焼きたてのパンにつけて食べていた。
食後のコーヒーをサイズアップして注文し、開いていた文庫本に目を移す。
「天国のペンキ塗り」について書かれている。
それは「労働だ」と。
天国のイメージダウンを防ぐために。
コーヒーを飲んでしまって、煙草も3本ほど吸い終わったころ、突如本が閉じられる。
閉じられる、といっても何か他からの作用があったわけではなく、集中力がプツンと切れたので、自分で閉じたようだ。
今日やるべき仕事のこととか、恋人のこととか、ちょっと頭をよぎると集中力は途端に奥底へ引っ込んでしまう。
仕方がないのでそのまま勘定を支払い、ブラブラと歩きながら、何故か”罵詈雑言”について考える。
「この馬鹿!」
「豚野郎!」
「畜生!」
「女狐め!」
「政府の犬が!」
「蝙蝠野郎」
「泥棒猫」
「狸親父」
「蛇みたいに狡猾だな」
「猿知恵の働くヤツだ」
「食べてすぐ横になると牛になるわよ」
おお、ホモサピエンス至上主義。身近な動物ばかりが悪態に使われている。
後半二つは悪口とは言わないかもしれないが。言われていい気はしないことは確かだ。
駐車場を抜けて、公園に出ると、昼休みを満喫しているスーツ姿、作業服姿がちらほら。
中には2歳にみたない娘を抱いた、太めの父親、その隣の細めの母親。いい光景だ。
今度は頭の中に、”一人称”についてが浮かぶ。
「オレ」「僕」「わたし」「わたくし」は使用歴があるし、これからも使うだろう。
しかし、「オイラ」「オラ」「あちき」「あたし」「」「わし」は使用歴が無く、今後を考えてもだいぶ先に「わし」を使うかもしれないし使わないかもしれないくらいの可能性しか残っていない。
一人称とはその人のキャラによって使用が制限される。
が、自分が口にして発しないことには他人から勧められるものでもない。
ちょっと話は脱線するが、一人称の代わりに自分を名前で呼ぶ女の子はキライじゃない。常時では困るが。
さしあたり、悩みが三つある。
一つは、昨日を休肝日に設定して、深夜2時くらいに「そういえば今日寝不足だった」と思い出して7,8時間ほど寝たのにもかかわらず、朝から腹が下っている。
一つは、明日の休みに雨、というピンポイントな天気予報。
もう一つは、テレビの占いは4月産まれは最高。新聞の占いはおひつじ座が低ポイント。』
そこまで読んで本を閉じて、僕は空を仰いで目をつぶる。
陽射しが瞼の裏まで和やかに広がる。
ふわふわとしたアタマのまま、半袖シャツにウインドブレーカーを引っ掛けて、バイクに跨る。
5月特有のほわっとした空気が、顔を、捲り上げた腕を、首筋を通り抜けていく。
それは暑くもなく、涼しくもなく。熱くもなく、温くも冷たくもない水の流れの中にいるように爽やかだ。
僕はなんだか嬉しくなって、ついついアクセルを全開にする。
そのまま両手を離して、恍惚の空気と自分が一体化している事をカラダ全体で感じとる。
まっすぐなアスファルトを。信号機も、標識も、対抗車も、後続車も、
もういらない。