自分自身の存在を自ら肯定するために、「何かしら誰かしらのために」という目的を上げることは多い。
子どものために、こういう親であるべき。
親を安心させるために、なるべく良い職に就くべき。
担任のために、良き生徒であるべき。
指導者のために、良い成績を残すべき。
応援してくれる人々のために、努力するべき。
しかしこれはある一線を超えると依存になる。
誰かのために、何かのために、自分はこうであるべきで、他は考えられないし、意味も見いだせない。
いつのまにかある一定量の自分を否定し、一方向にだけ固定することは、自分の存在を肯定することになっているだろうか。ある意味あらゆる可能性を潰して残り物になってしまってはいないか。
これは価値観というか観点の違いで多いに表れる。
とても難しい。
生きているだけで存在はしているのに、意味を見出して自身を固定しなければ安心できない。
そうしないとバラバラに離散してしまう、脆くて弱い存在なのだ。