例えば、1988年の4月上旬に、雪が降ったことは覚えている。
正確には、数日前に降って積もった雪が、一つ年下の弟の入学式の日にまだ残っていた記憶。
午後に入学式を控え、昼前に少しずつ陽射しに溶けていく雪を覚えている。
しかし、その年の冬が寒かったかどうかは覚えていない。
例えば、大雨が続いたのか何なのか、平地にも関わらず下校の際に長靴は役に立たなかった初夏の日がある。
傘をさすのを諦めて、靴下ごしに感じるヌチョッとした感触を楽しんで帰った。
翌朝、水が引いた道路にはミミズが干上がっていた。
しかし、何年の何月何日かは覚えていない。
例えば、好きな子がいて、放課後も一緒に一緒に居れることは望みうる限りの至福だったが、その子が好いているヤツの家に数人で遊びに行くこともあった。
堪えきれなくて、寝てしまったフリをしたことは覚えている。それもかなり深い眠りだ。
そして、そのとき好きだった子の生年月日は今でも覚えている。
要するに、記憶というのは曖昧で頼りにならないが、“それしか知らない”のであるし“それでのみ今の自分は出来ている”。
「男性脳」、「女性脳」の区別はこの際問わないとして、“別名で保存”、“上書き保存”の選択肢も、記憶を司るさらに奥の海馬によるものだとすれば、僕自身で覚えておきたいこと、思い出したくないこと、それぞれはなんて不自由なものなんだろう。
春は何かを思い出させ、同時に何かを忘れていく季節なのかもしれない。
気温がそれを感じさせる。