先日、天ぷらを揚げた。揚げ物は初挑戦だった。
衣の材料を冷蔵庫で冷やし、具の下処理を行い、いざ準備万端!今夜はサクサクの天ぷらだぜ!
と、意気込んでみたものの、カキアゲは油の中で分解して出来損ないの野菜炒めと化し、舞茸に至っては「鉄板に油を塗るハケ」のごとく口の中にいれると油で口腔が満たされた。
イカはイマイチ火が通りきらずだったが、それでも刺身用の生イカを捌いて作ったので食えないわけではなかった。
最後に揚げたエビはそこそこ及第点だと自己採点したが、隠し包丁の入れ方があまかったので丸まってしまい、天ぷらではなくフリッターのようだった。
ようするに、油の温度が揚げ始めはまだ低かったのと、衣がゆるすぎたという致命的なミス。
おとなしく八宝菜的な炒め物でも作ってりゃよかったのだ。
今朝、あまり鳴ることのない家電が鳴った。
出てみると祖母からだった。
なんだか息巻いて喋りはじめたので、「もしや爺ちゃんになにかあったか?」と思ったがなんのことはない、先週の曾孫の誕生日忘れてて申し訳ない、なにか埋め合わせしたい、とのことだった。
確かに、毎年ケーキは買ってやるから届けとくよ、なる入電があったが今年はなかったので「まさか忘れてるのか?」とも思ったが、こっちから催促するのもアレなので放置していたのも事実。
おそらく一緒に回転寿司でもいくことになるだろう。
オレには棚ぼた的要素でありがたいが、「初曾孫の誕生日を忘れていた」のは祖母にとってある意味自己嫌悪に陥る要素なのかもしれない。
ところで、『曾孫ができる』という感覚はどういうものなのだろうか。
今のところ、『孫ができる』感覚すらも想像できない。
いつもアホなことばかりしている息子が、結婚して子供をもうける。
ムリだろ。
ましてや、その子供がさらに子供をもうける。
生きているうちにその感覚を味わえる気がしない。
日本の法律上は、女性は最短で32歳で祖母に、48歳で曾祖母になりうる。
男性でも34歳で祖父に、50歳で曾祖父になることはできる。ごく稀なケースではあるが。
オレもヘタをすればあと10年後に「おじいちゃん」と呼ばれるかもしれないのだ。
天ぷらを一度失敗しただけでヘコたれてる場合じゃない。
油を酸化させないように、古臭い要素は排除し、
あわよくば良い意味で「脂の乗った」人生を送りたい。