彼女と半同棲生活を始めてどのくらい経っただろう。
今日は会社が決めた"ノー残業デー"だ。寄り道をしないでまっすぐ帰ろう。
電車の中はいわゆる帰宅ラッシュというやつで、混沌としている。
僕はなんとか吊り革に捕まることができた。鞄を網棚に載せる。
しかし、よくここまで疲弊と倦怠とで朦朧としている顔ぶれが詰め込まれたもんだ。
「人生はたった一度きり、死んだらそれで終わり、それなら楽しんだモン勝ち」若い時に耳にタコができるほど聞いたりしていた言葉。
実際のところ、そんな生き方を送った人間はいたのだろうか。葬式の時に「アイツ、好き放題な人生送ってたよな」なんて弔問客たちの間で交わされる人間はどのくらいいるんだろう。
楽しんだモン勝ち、みんな一度はそう思った事があるはずだ。なのに、この車内の灰色がかった空気。誰もそんな人生を送れちゃいない。
こんな事を考えていたら自分にも嫌気が差してきたので、気分転換にとイヤフォンを耳にねじこむ。ボリュームに気を使いながら、再生。
疾走感のあるイントロのギターが流れる。
「ぼくらは泣くために生まれてきたわけじゃないよ ぼくらは負けるために生まれてきたわけじゃないよ」
このアルバムが出たのが1987年だから、もう二十五年も前の歌なんだな。
混沌とした車内から脱出し、改札を出ると、昨日の雨が嘘のような、心地良い秋の空気が吹いていた。
彼女が干した洗濯物も、さぞかし早く乾いただろう。
そうそう、ほんのくだらない、口に発すれば"オヤジギャグ"と嘲笑われるだろうセリフを思いついたのだが、いかんせんタイミングが合わない。
日程、献立、それに加え"女心と秋の空"どころじゃないレベルの彼女の心境、全てがドンピシャに当てはまることなんてないかもしれない。あったとしても、宝くじなみの確率だろう。
アパートへ向かう途中、暗くなってきた街並み、通り過ぎる家々から今夜の夕食の匂いがしてくる。
こっちの家はシチュー、隣の家では魚を焼いている。どこからかオリーブオイルで熱せられたニンニクの香り。
腹が減ってきた。アパートの階段を上って、東側の角部屋へ。彼女は戸締まりをきっちりする性格だから、ノブを回す前にチャイムを押す。
パタパタと、軽やかなスリッパの足音。
ドアが開くと同時に、笑顔で迎えてくれる彼女、そして、カレーの匂い。
まだだ、焦るな。
「ただいま」努めて冷静な口調で言う。
その後、宝くじ並みの確率が的中する。マンガやドラマじゃあるまいし、現実にこんなことを言う女性がいるとは。
まだだ、表情を変えちゃいけない。「言いたくてしょうがなかったんだ!」そんな気持ちを悟られちゃいけない。
なるべく彼女の顔を見ないように歩きながら待望のセリフを口にする。心の中だけでガッツポーズをしながら。
彼女は僕の背中を追うようについて来たが、そのままキッチンへ行ってしまった。
ジャケットを脱ぎながら、一連の流れを思い出す。
ソファに腰かけてネクタイを緩めながら彼女の方を見る。ちょっと怪訝な目で僕を見ている。
もう限界だ。
僕の口から笑みがこぼれる。