「好きになりすぎると、裏切られたときに辛いから、あまり入れこまないようにしたの」
僕の毛布にスルリと潜りこんで彼女はそう言った。
「恋の駆け引きを英語で"Tactics"って言うけど、時計の針の"TicTac"と何か関係あるのかしら。両方とも時間が深く関わってそうだけど」
彼女は僕の胸の上に左手を置いてそう言った。
「曇りの日って"これから晴れる"と"これから雨が降る"の両方を孕んでいるでしょ。だから好き。これから晴れるかもしれないって希望があるわ」
確か、寝る時に聞こえる雨音がたまらなく好きだったはずだ。
「ときどき、『なんで私ばっかりこういう目に合うの?』って思っちゃうの。」
僕は答えることができず、ただ黙っていた。
「なるべくなら、もう何も考えたくない。イヤな事ばかり考えて眠れなくなるのも、良かった事ばかり考えて現実に落ちこむのも、もうたくさん」
僕は何も言えず、彼女の肩を抱いていた。
「どこか、遠いところへ行きたいなあ。誰も私を知らないところで、ゆっくり過ごしてみたい」
僕はじっと、暗闇の中の天井を見つめていた。
夢の中で、海岸線に建つ青い屋根の白い洋風の家に僕たちはいた。
キッチンにいる彼女、ダイニングチェアーに座っている僕。
白を基調にした家具、木製のテーブル、白いエプロン。
僕は薄手のシンプルなシャツ、目の前には新聞と灰皿と「×」がいくつもついた卓上カレンダー。
潮風が、窓からカーテンを揺らしている。
ふしぎな事に、何の音もしない。
潮騒も、食器を重ねる音も、時計の音も。
ふと彼女に目をやると、僕が大切に飲んでいるウイスキーをフライパンに注ごうとしていた。
立ち上がって止めようとしたが、声は喉の奥で引っかかって出てこない。
彼女の手をとめようと右手を伸ばしたその時に、夢は終わった。
目が覚めて、横を向いても彼女はいなかった。
起き上がって、見回してみてもやはりいない。
机の上に書き置きもなかった。
もう一度、部屋を見てみても"何もなかった"。
彼女など最初から存在していなかったかのように、見事に何もなかった。
小鳥のさえずりが聞こえる、春らしい朝、
何年もめくられていないカレンダー、
食器棚には残りわずかなウイスキー。