HAPPY! I SCREAM

妄想雑記

2011年総括(Long ver.)

年の瀬なので2011年の総括をしてみようと思ったが、どうにもこうにも3.11近辺に偏ってしまう。

今年の自分の日記を読み返してみたら震災時の状況などは書かれていなかったので、思い出せるだけ書いておく。




3月9日だったか、仕事の前に仙台市博物館へ行っていた。
ポンペイの遺跡展」が開かれていて、JOJO好きな自分としては作中に出てくる『犬の床絵』を見たかったのだ。
追い炊き機能が既についていた風呂などを感心しながら見ていると、グワッと揺れた。
それまでは大抵、大きな地震の時は地下にいたので、相当大きく感じたが、展示物も無事だったし、館内放送も落ち着いていたのでそのまま観覧をしていた。


11日。
家から長町まで原付きで出勤し、泉中央でのラジオ収録をしていた。13時〜14時くらい。
終わって、地下鉄に乗り事務所へ戻った。
この日はワンマン公演で、イベンターの社員が一人、メンバーとスタッフを合わせても4人の少ない一行だった。

ラジオでかけたCDを棚に戻し、メンバーさん達に挨拶を終えたところで、携帯にメールが来る。

NESタクローさんからで、(その頃飲み屋の新規OPENに向け内装とかをDIYでやっており、ちょくちょく事務所に休憩とかによく来ていた)「今日事務所いる?」という内容だった。

「いますよー」と返信しようとしたその時、マナーモードにしていたはずの携帯から聞いた事のない音が鳴りだした。送信ボタンを押そうとしていた瞬間だったのでビックリした。
スタッフの携帯からも同じような音が鳴り響いていた。
画面には『緊急地震速報』とあった。

で、揺れた。

2006年の地震のときも事務所にいたし、「地下は大丈夫だろ」と思っていたが、揺れは大きく、長かった。
ホール、事務所のあらゆる扉を開けるように指示し、自分は事務所とホールの間の鉄扉を開けたまま押さえていた。

少し揺れがおさまった頃、会場にいる全員(とは言っても10名程度)の無事を確認しなければ、と思った。
楽屋にいたアーティストは既に裏口から脱出していた。

そしてふいに、全ての明かりが消えた。
JUNKBOXで働き始めてから約12年間で停電を経験したのは初めてだった。
非常館内放送が建物から出るようにと言っていた。
ビルの消防訓練を思い出し、ひとまず地下二階に他のお客さんがいないか見てまわった。隣の北京餃子ではまだ食ってるやつらがいた。

フォーラス事務所の人間が降りてきて、さらに建物からでるようにと指示してまわっていた。
この時、頭の中では「今日の公演中止の払い戻しの対応をどうするか、停電もすぐに復旧するだろうけど週末の公演は延期になっちゃうかもな。その対応もしなくちゃな」としか考えていなかった。
いったん避難してすぐに戻れると思っていたので、カバンはそのままに上着と携帯と煙草だけ持って地上に上がった。
広瀬通には車線のあちこちに停車した車があり、歩行者や他の建物から出てきた人達はみんな中央分離帯に集まっていた。
避難場所は立町小学校だったので、西へ広瀬通を歩いて行った。
フォーラスのアーケード側にあるエレベーターのガラスが、割れて落ちていた。
歩道がボコボコだった。
立町小学校に着いたものの、何を待ってここにいるのか分からなかった。
当然ながら携帯の回線はパンクしていて、パートに出ているカミさん、小学校にいる息子、保育園にいる娘の安否は分かるはずもなかった。空は曇っていて寒く、その気温が落ち着かなさを加速させた。
寒くなってきたので、体育館へ入った。フォーラス事務所の人間が、各階テナントの安否を数えていた。
全員の安否が確認できるのと、建物の損傷の確認がとれるまでは帰れなかった。
体育館にいる間も、しょっちゅう揺れた。柱がないので、体育館自体が歪んで倒れないか不安だったが、それより陽が沈まぬうちに、歩いて帰れるうちにスタッフを帰してやりたかった。
そして、雪が降ってきた。

日が暮れ始めようとする頃、ようやく帰宅許可が下りた。
春服を売っていたアパレルテナントの人達は、上着もないままずっと待っていたんだ。
各テナントの代表者2名が、店まで入る許可を得た。
フォーラスに戻る途中で偶然イベンターさんと再会し、勾当台公園へ避難していたアーティストの無事を知る。
自分のカバンと、幸い手で運べるだけだったアコースティックセットの楽器を二人で運び出す。ついでに事務所にあったLEDマグも。

体育館の床と、雪が染み入ったアスファルトのせいで足は冷え切っていた。
広瀬通の地下駐輪場は閉鎖されていて、今日ここに停めていなくてよかったと思った。が、長町の駐輪場はどうだろう、行かなくては分からない。
夕闇が降り始め、通りを行き交う車のヘッドライトとテールランプだけが道のある場所を教えていた。

あとは、ひらすら歩いた。
大通りは車のライトがあるからよかったものの、陥没した歩道なんかはあちこちが通れず、やむなくみんな車線を歩いたりしていた。
広瀬川沿いの遊歩道は真っ暗で、マグライトで足元を照らしながら歩いた。
長町一丁目の旧道4号はことさら凸凹がひどく、途中でガス漏れの臭いもしていた。
道路は文字通り波打っていて、そのまま凍りついたかのようだった。地下鉄6駅分を2時間近くかけて長町駅に着いた。
駐輪場は開いていて、電動ロック式のチェーンは解除されていた。
徒歩から解放され、原付きに乗って家を目指した。
信号も街灯もビルや店の明かりも何もない道を、なるべく大きい道路を選んで走った。みんな、交差点では譲り合っていた。

名取大橋を越えて、堤防沿いを走った。月明かりも星の明かりさえもない細い道をヘッドライトだけが数十メートル先を照らしていた。
8時頃家に着くと、玄関のドアにメモ紙がセロテープで貼ってあった。「小学校の体育館に避難しています」家族の無事を知った。
真っ暗な家に入ると、家具の配置がずれていただけで済んだようだった。しかし、自分の本棚とCDラックだけは床にブチ撒けられていた。
四郎丸小学校の体育館へ行く。近所の住人が次々と避難してきていた。暗くてなかなか探し出せない中、ようやく家族と会った。
布団まで持ち込んでいて、同級生家族と一緒にいたが、なんとなくここでは寝たくなかった。
後から後から人は増えるし、落ち着かない。
なにより、広い体育館は寒かった。

家に帰って、リビングに布団を並べて寝た。寝た、というよりただ目をつぶっていただけの時間の方が長かったかもしれない。余震の度に身構えた。
電池もなく、ラジオもなく、ロウソクも小指サイズのものが一箱あっただけだった。
充電もできないし、つながらない携帯はいっそ電源を切った。
布団をかぶって朝が来るのを待つ他は何もできなかった。
情報は何もない。

津波が来た事も知らなかった。


朝起きると、送信時間がバラバラのメールが届く。

一日明けた街へ、原付きに乗り向かった。

フォーラスの従業員出入り口兼警備室で、館長と会うも、中には入れなかった。
こんな日がずっと続いた。




それからしばらく、日の出と共に起き、スーパーマーケットに並び、昼過ぎに帰ってきてまた街へ行く、というのを繰り返した。

東京に住んでいる弟が電話をくれたが、電波も依然つながりにくく、かつ充電も無くなりそうなことを伝えて切った。「あぁ、そうか」と弟も納得していた。

「区役所で充電ができるよ」という情報を聞きつけ、車で向かった。
ガセネタだった。


11日に偶然来仙していた社長が寝泊まりしているビルの事務所へ行き、携帯の充電をさせてもらった。
仙台市中心部は次の日には電気が復活していた。
炊き出しを始める飲食店も出てきた。
外ではビル外部にあるコンセントに充電器を差して座りこんでいる人達がいた。
事務所も電気が復活しているだろうが、いかんせん立ち入りできない。
きっと店の電話のコール音は鳴っているだろう。出れないけど。


薬局で一人5点までの買い物ができ、ラジオがあったのですかさず買った。



仙台南方面のドコモの基地局がやられ、家の方は全く電波が届かない。
ツイッターが便利、スマホが便利、と言うが全く無縁の状況だった。

幸い、水は止まっていなかった。最初はエコキュートのなかの水を使っているのかと思い、汚い話だがトイレも数回流さずに決めていた。
が、近所もどうやら止まっていなかったようだった。
家の物入れに反射式ストーブが眠っていたのを発見し、それがコンロの代わりになった。
鍋に米と水をいれて飯を炊き、別の鍋で味噌汁を作った。傷みが早い肉類から小さいフライパンで塩コショウで焼いた。

沸かした湯に水をいれて薄め、タオルをつけて子供たちの身体を拭いてやった。
灯油がなくなるといけないのでなるべく火はその時だけにした。

畑をはさんだ向こうの家はガソリン駆動の発電機を所有していたらしくリビングと思しき電灯が点いていた。




15日、いつものように日が暮れる前に晩飯を食い、布団を広げたとき、
キッチンから見える近所の家に、明かりが点いていた。

もしや?と思ってブレーカーを上げる。
洗面所の明かりがつく。

家族4人の奇声に似た歓声があがった。

携帯の充電器を差し込む。
オール電化なので明日には蛇口から湯が出るだろ、と思いながら安堵しテレビをつける。
家からすぐ近く(小学校で言う隣の学区)にある実家に電話する。
そちらはまだ電気が復活していないようだった。



自分たちは被災者じゃないのかも、と思った。
家もあり、家族も無事だった。
今日、電気が復活した。


被災地に住みながら、もっと大変な人達がいる事をようやく知った。





次の日は、IHで調理し炊飯器で米を炊き、明るい部屋で晩飯を食べた。
湯船に湯を張り、家族で入った。
後ろめたさはあったが、被災の深刻度を比べても仕方ないと自分に言い聞かせ、温かい湯につかり、シャンプーで髪を洗い、身体の垢を擦り落とした。





連日のフォーラスと家の往復で、原付きのガソリンもなくなりかけていた。
半分くらい残っていた車を動かして、ガソリンスタンドの列に混ざった。

エンジンを切り、前の車が進んだら少し進み、またエンジンを切る。下り坂はギアをニュートラルにして重力で進んだ。
雪が降ってきて、車の中はひどく冷えた。
文庫を二冊読み終えるほど待っても、買えなかった。日が暮れる前に家に戻った。


ビルの点検、工事は捗っていないようだった。

ある日、翌日午前中の間だけ店内に入る許可が出た。
店に残していた現金と、スケジュール帳、デスクトップのパソコンを回収できた。
音響、照明の機材も全部無事だったのも確認できた。通電も大丈夫だった。
いつでもライブハウスとしての営業は再開できる。が明日からまた店に入れない。


家に帰りPCを立ち上げようとしたが、電源が入らなかった。
停電による強制終了のせいか。メーカー元へ入院となった。

普段の心がけがよかったのか、データのほとんどはUSBメモリにバックアップしてあったので、
自宅のノートPCにメールアカウントの設定を移し、自宅が簡易事務所になった。

決まっていたライブのマネージメントやイベンター、バンドやプレイガイドと電話やメールをやり取りし、次々と公演がキャンセルになっていった。
翌月の携帯の請求額がすごかった。
WEBの更新だけはデスクトップに入っているソフトを使わないとできないので、店のblogに払い戻しの詳細を書き込んだ。

「ライブに行くよ」と言ってくれるツアーバンドから多くの連絡をもらったが、まだ店の状況が定かじゃなく歯痒い思いをした。

月末に、マカナのビル退去の話を聞いた。
正直、他人事じゃなかった。しかもこっちは結論がいつでるかも分からない。
先のスケジュールも決められず、スタッフ達にも何もしてあげられなかった。

月末の給料は銀行にあった残高でなんとかなったが、4月の分は無い。

金融公庫や銀行に金策に走った。
が、会社の本籍が新潟にあるので融資や助成金を受ける事はできなかった。
なんの収穫も無いまま、また街と家を往復していた。

ガソリンスタンドに行って来ると言って車に乗り、走らせながらちょっとだけ泣いた。









4月7日、突然フォーラスから電話がかかってきた。
最悪の事態を想像しながらも受話器を耳に当てると、意外にも朗報だった。
一週間後に、立ち入りと営業の許可が出た。
が、4月と5月前半のスケジュールは白紙になっている。

まあ、最悪の事態は回避できた。
その夜、スタッフを集めてミーティングをした。
終わったあと、パースクにLIVEを見にいった。
帰宅して寝ようとしたところに、地鳴りを感じた。
正直、震度4程度の余震には慣れてしまっていた。が、今回は長い。
11日の大きさを思わせる余震だった。
揺れがおさまったあと、居間に降りてテレビを点けようとリモコンのボタンに指を置いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
また停電だった。朗報を持ち帰ったばかりだったので、ついに心が折れそうになった。

翌朝、実家にカセットコンロを借りにチャリで走った。
ついでに再びグチャグチャになった実家の片づけを手伝い、家に戻った。
途中、交差点で信号機が赤に変わったのを見て、電気がもう復活したことを知った。


拍子抜けして家に戻り、翌週から店で仕事を始めた。




その後、なんとか店の家賃とスタッフの給料と仕入れの支払いができるくらいまでには営業できるようになった。





あと少しで、2011年が終わる。



2012年はね、
BLUE HEARTSのデビュー1st「THE BLUE HEARTS」&2nd「YOUNG&PRETTY」と初日比谷野音LIVEから25年、
CHAGE&ASKAの「SUPER BEST?」から20年、
BLANKEY JET CITYの名盤「LOVE FLASH FEVER」、ジュディマリの最高傑作「LOVER SOUL」から15年、
の周年だから、きっと良い一年になるはずだ。


人生を変えたこの曲たちを聴き狂っていた17才のあの青春から、15年。