HAPPY! I SCREAM

妄想雑記

AM3:00の微笑み

今日は何かが違う、そんな事を考えながら歩いていた。
昨日までのここ何日か、通りすがる人達はみんな何かしらの笑顔を浮かべているように見えた。それは、冬季休業に入った学生、児童の開放感から来る喜びの笑顔か、それとも本来の来日理由とは全く違う文化になってしまった西洋の行事のなせる業か。
少なくとも、その笑顔を見て不快になることはなかった。誰がはしゃぎ、誰が浮かれていようと、なぜか全て微笑ましく許せる気分だった。


ところが、今日26日の人々の様子はやはり違った。誰もが昨日まで見せていた屈託のない笑顔を止め、あろうことか下を向いたり、幾分か昨日までより早歩きで通って行く。今年一年分の幸せは昨日までで終焉を迎えたかのようだ。これが年末という"区切り"への駆け足が押し迫った表情達なのか。マラソン大会が目前に迫った小学生のようだった。


人々は"区切り"を勝手に作り、その"カテゴライズ"をとても大事にしている。
一日の始まりと終わりに「おはよう」と「おやすみ」。
食事の始まりと終わりに「いただきます」と「ごちそうさま」。
一週間の始まりに憂鬱になり、週末に陽気になる。
30日とか31日というまばらな周期で、人類を12分割して傾向を提示したりそれを信じたりする。
一年の終わりには、さっきのように幸せから忙しなさへ豹変し、一年の始まりには作り置きの料理をつつきながら、テレビを垂れ流しにする。(ここで凄いと思うのは、その番組を事前に収録しているものが大半だということだ。出演者はみんな、あたかも新年の祝いを述べ、晴れ着を着ているが、それは世間一般がクリスマスだとか冬休みだとかの更に前には撮り終えている。テレビ番組が全て生放送だと思い込んでいた昔の自分は、この事実を知って大層ショックだった)
学業の始まりには桜の木の下で写真を撮り、学業の終わりには大半は酒を浴びる。
人生の始まりには自分事のように祝い、誰かの人生の終わりには涙を流し、感情の分だけ儀式を執り行う。


どちらかというと「終わり」の方に重きを置き、悲しみ淋しがりながらも、そこからまた「始まり」にわずかな期待を抱く。
夜空の星も寿命を終える時には超新星となって輝きを爆発させ、岩くらいの大きさの隕石たちでも流星となって一瞬に輝く。桜も散り際が美しいと感じ、終焉の瞬間の連続を花火に求める。




思考は常に忙しい。時には感情を押し殺してしまいたくなるほどに。







でも、午前3時に交わされる喜びと、その秘密性はとても救いあげてくれる。